空(くう)について

仏教が他の世界宗教アブラハムの宗教(ユダヤ教キリスト教イスラーム)と根本的に異なるのは、くうの概念だろう。

 

ユダヤ教キリスト教イスラームでは、世界が存在する前に唯一絶対神であるヤハウェ・神・アッラーフが存在し、その唯一絶対神が世界を創り、人間を造ったということになっている。

 

それに対してインドでは、まず何だかよくわからないカオスから宇宙が生まれ、そこから神々が現れ、そいで神々が世界を創造したということになっている。そもそも前提が異なる。

 

唯一絶対神が世界を創造した訳でなく、カオスが宇宙になって、宇宙から神々ができあがって、そんで神々が世界を創造したのだから、現時点で宇宙が現状の通りであるとは限らず、現時点でもカオスのままかも知れないし、神々どころか、この世界も存在していないかも知れない。まずそういう前提がある。

 

だから釈尊以降の初期仏教者たちも、釈尊がただ一人の「現世」で仏となった存在であることは認めるものの、その現世すらも本当に実在するものなのかどうかということについては、かなり醒めた態度だった。

 

んでもって、くう

 

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空 | 生活の中の仏教用語 | 読むページ | 大谷大学 (archive.org)

 

現世だの世界だの人間だの世間だのというものは、たまたまそういう風になってしまったのであって、実体というものはなく「からっぽ」なのだということ。

 

般若心経に

 

色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき

 

とある。

 

しきというのは存在や実体、現象のことをいう。現象は空であり、空もまた現象である、と。これが仏教の考え方のひとつの根本な訳だ。

 

我々が真実と信じる物事は、実際のところは個々人やコミュニティや社会や国家やらにおいて、そのようにしておいた方が都合が良いから真実としておいているだけのことであって、そもそも「真実」というものが空なのだ。正義もまたしかり。世間にとって都合が良い悪いで、真実やら正義やらは(人類の歴史というスパンにおいて)コロコロ変わるものだ。

 

何やらニュースでは fake news だの fact check だの言うけれども、実は唯一絶対神が基準として存在していて、唯一絶対神が説くところに照らして fake だの fact だの言ってる訳だよね。

 

実際のところはアブラハムの三つの宗教は唯一絶対神を想定していながら、その解釈が互いに違うし、同じ宗教の中でも宗派によって解釈が異なる。だから三つの宗教の人たちが口角泡を飛ばして議論したところで、仏教の立場からすればそもそも空なので、議論そのものが成立していない、すなわち空であるということ。

 

仏教世界の人間であれば空を心得て、文字通り「うつろ」な空の議論からは身を一歩ぐらい退いといて、それで何が色なのかを考えたいところだ。

 

サンスクリット語とパーリ語

まず、ややこしい事柄を整理しよう。

 

 仏教はインドで生まれた。インドからシルクロード経由で中国に伝わり、そこから朝鮮半島や日本に伝わった北伝仏教というものがある。もちろん日本の仏教は北伝。一方で、インドから海路で東南アジア一帯に広がった南伝仏教というものがある。

 

 伝来ルートが違うせいか、お経の元のコトバが違う。北伝仏教はサンスクリット語三蔵法師なんかがインドから持ち帰ったお経はサンスクリット語で、それを当時の中国語に翻訳したのが、われわれの知る「お経」だ。

 梵字なんてのがあるけど、あれは当時のサンスクリット語を表記するのに使われた文字。サンスクリット語は、西欧世界でのラテン語みたいなもので、インドの古典やヒンズー教の礼拝用に使われている。ラテン語はとっくに死語だけど、サンスクリットはネイティブ・スピーカーが1万人ぐらい存在するそうだ(そうした人たちがサンスクリット語で文章を書くときは、ヒンディー語と同じデーヴァナーガリー文字を使う)。

 

 一方で南伝仏教パーリ語サンスクリット語みたいなもんだけど…ラテン語も、最初は公用語としてのラテン語があったのが、民間に広がって一般人向けの俗ラテン語というものができた。パーリ語もそうした、サンスクリット語の一般向けの言葉。今では死語で、南伝仏教でしか使われない。文字もパーリ文字というものはなく、南伝仏教の国の、その国の文字が使われる。

 

 ウィキペディア仏教用語を調べれば、サンスクリット語パーリ語と、両方のアルファベット表記が出てくる。西欧世界ではサンスクリット語のアルファベット表記を使うことの方が圧倒的に多いようだ。

 

 しかし私が知る限り日本で仏教を研究する人は、漢字のお経と、サンスクリット語のと、パーリ語のとを対照するものらしい。とくに南伝仏教パーリ語のお経は、お釈迦様が実際に言ったことを、より正しく伝えていると考えられているみたい。だからウィキペディアでも、サンスクリット語パーリ語とが出てくる。

 

 

とにかく仏教には北伝と南伝があること、北伝はサンスクリット語(から中国語に翻訳された)、南伝はパーリ語と覚えておいてほしい

  

このブログでは、アメリカ在住の知人が読むことを念頭に置いているので、基本的にサンスクリット語を使うことにする。

 

輪廻転生

 仏教より、まず覚えておかなければならないのは輪廻転生の概念だ。

 なぜならインドから東の多くの地域で、輪廻転生をガッチガチに信じている人が非常に多いから(イスラーム国家を除く)。

 

 日本の仏教では六道(ろくどう/りくどう)という6つの世界をぐるぐる輪廻転生するとしている:天・にん(にん)修羅しゅら(しゅら) ・地獄・餓鬼・畜生。

 

天人てんにん(てんにん) の世界。天人は人間より優れた存在。人間と違って苦しみがなく、快楽にあふれているけれども、寿命があり、死んだら別の世界に転生する。

 

は人間の世界。

 

修羅阿修羅あしゅら(あしゅら)の世界。阿修羅は迷いと、どうでもいい執着にとらわれている。修羅は怒りと苦しみに満ち、阿修羅たちは互いに争って絶えることがない。修羅場なんて言葉があるけど、元は仏教。

 

地獄は、まあ、常識だわな。キリスト教ともイスラームとも共通した概念。ただ仏教の場合は一種の刑務所であって、刑期満了でもって他の世界に転生できる。キリスト教とやイスラームなんかは永遠の苦しみらしいけれども、詳しいことは知らない。

 

餓鬼というのは文字通り飢えた鬼の世界(子どものことをガキんちょなんて言ったりするけど、本来は仏教の言葉)。飢えと渇きの苦しみしかない。いろんな種類の餓鬼がいるらしい。これまた一定期間でもって他の世界に転生できる。割に珍しいけど、日本には施餓鬼会せがきえ(せがきえ)なんて行事がある。これは餓鬼を供養する行事だ。

 

畜生は人間以外の動物の世界。

 

 んまあ架空の世界観だから、人間が実際に認識できるのは畜生だけだわな。

 

 とにかくインドより東じゃすべての生き物は、こうした世界をグルグル輪廻転生しつづけると考えられている。特にイスラームでないインド諸国と東南アジア諸国はそうだ。

 

 こうした世界を輪廻転生するという考え方が日本で一般的でないのは、まず、一切衆生悉有仏性いっさいしゅじょうしつうぶっしょう(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)、すべての生きとし生けるモノはすべて仏となる可能性を持っているという概念が支配的であること、また南無阿弥陀仏が一般的だから、地獄と極楽ぐらいしか問題にならない、これら2点のせいだと思う。

 

 ただし、押さえておいた方が良いポイントがある。それは、仏になれるのは人間だけということ。

 

 ペットの動物が死んでも天国とか極楽浄土とかには行けません。畜生以外の他の世界に転生して、人間の世界に転生してはじめて、仏になれるチャンスが訪れるということ。

 

はしがき

米国在住の知人がボランティアで美術館のガイドをやっているのだが、仏像関係で仏教の基礎知識ほぼゼロだから困っていると(ごくごく普通の日本人)。

 

とりま入門書をアマゾンで買って送った:

 

仏教聖典

仏教聖典

 

 

むかしっからある本だし、和英対照版があるから、それを送った。ごくごく一般的な日本人が仏教の基礎知識を覚えるには、この本で十分。

 

ただアメリカの美術館でガイドとなると、これだけでは不十分。だから不足分を、思いつくままに書いていこうと思う。